2012年02月18日
マッサージスクールでは、東洋医学がベースとなった施術をお教えしています。
しかし、当時の専門学校の内容では物足りなさを感じていました。
そこで1988年、私は中国で本物の東洋医学を勉強したいと思い、
中国に留学する事を決めました。
生徒さんに、中国で勉強することになった経緯などをお話しすると
皆さん、とても面白そうに聞いてくれるので、ここでも紹介しようと思います。
まず、留学を決めた私は、中国の東洋医学の専門大学に、
留学資格を問い合わせました。
その中に、
「授業を理解できる程度の中国語ができる事」とありました。
一般的の語学留学でなく、専門大学で学ぶ場合は、
普通、1年程度の語学留学を終えてから
専門の大学へ進学するのが普通なのだそうです。
しかし、少しでも早く本物の東洋医学を学びたかったので
私は当時、中国と日本の貿易会社に勤めていた叔父にお願いして、
私が留学を希望している広州中医学院(現在の広州中医葯大学)に
直談判をしました。
叔父は中国人が驚くくらいの中国語を操る《中国語の天才》で、
留学経験もないのに大学生時代には中国からの要人が日本に来た時、
政府から通訳として依頼が来る程の人でした。
そして、その叔父の強力な交渉力のお陰で、
なんと「入学前に大学で試験をするので、それに谷口さんが合格すれば、
語学留学しなくても入学を認めます。」という約束を取り付けてくれたのです。
当時、私は22歳。
針灸専門学校、そして柔道整復師の専門学校を卒業し、
大阪市内の整形外科のリハビリ科で働いていたのですが、
この叔父の恩義に必ず報いなければならないと思い、
病院勤めをしながら、中国語の学校に通い始めたのです。
その時の目標は「1年のカリキュラムを半年で終了させる!」でした。
しかし、初めての中国語はとにかく難しかったです。
そんな時、私の叔父は一言、こうアドバイスしてくれました。
「とにかく中国語をいつも聞く事だよ」と・・・
それからの私はカセットテープを聴くためのウォークマンを購入し、
中国語のテープを時間がある時に、ずっと聴くようにしたのです。
中国語の天才と言われていた私の叔父は、
大阪外国語大学で学んでいた学生時代、私の家に下宿していたのです。
だから、私は叔父が中国語を勉強している姿を憶えています。
当時私は小学生でしたが、
叔父は、大きなラジカセを持ち、大きなヘッドホンを付け、
さらに、本が一杯詰まっているリュックを背負って
大学に通っている姿を憶えています。
私が小学校の頃といえば、1970年代。
もちろん、そんな時にはウォークマンもありません。
また、ようやくラジカセ(若い方はこの言葉分かるかな??)
が、出始めた頃でした。
とにかくその大学へ通う叔父の姿は、当時は皆の目を引くほど異様でした。
叔父が、中国語を学ぶ最初の第一歩、
「とにかく中国語をいつも聞く事だよ」と、アドバイスしてくれた言葉で、
学生時代の叔父の姿がありありと目の前に浮かんできた事を思い出しました。
叔父の言葉をただただ信じ、私は来る日も来る日も中国語を聞き、
そして、半年間で1年間のカリキュラムを仕上げるために、
病院と中国語学校、そして自宅との行き来だけの日々を過ごしました。
そして、半年。
私は中国語の先生方に「短期間でよくここまでできるようになったね!」
と、言われる程度までの会話力を身に付ける事ができました。
1988年。
私は中国語がある程度使えるようになって、とても嬉しかったです。
また、当時、私の周りで中国語が出来る人といえば、
私の叔父、そして中国人とのハーフである叔父の奥さんしかいませんでした。
友人達からは「なぜ英語じゃなく、中国語?」
と、よく不思議がられたものでした。
そして、アルバイト先の病院を長期でお休みさせていただく了承を得て、
いよいよ8月、中国の南の大都市、広東省広州市にある、
広州中医学院(現、広州中医葯大学)に行く事になったのです。
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